連載11回めの奥武蔵・笠山とほとんど同じ趣旨で紹介したいのがこの西丹沢・高松山だ。 笠山のタイトル写真を見て勘違いされた方も多いかと思うが、主役となっているピラミッド型の立派な山は秩父盆地にそびえる武甲山。その左側、かなり遠くに見える山が二子山。写真ではそこからさらに遠く、左方向に小さな起伏の稜線がのびているが、くわしくいうと右から左へ堂平山、笠山、大霧山の比企三山……となるのが正解。
解説スペースがなかったので、妙な写真になったのだが、笠山はときどきスゲ笠のように見えることがあるけれど、ほとんどの場合遠くて小さい。 今回はもっとひどくて、この高松山では、山の姿を撮ろうとした写真はまったくない。 撮ってはいたけれど写りが良くない……などというのではなくて、徹頭徹尾、山そのものには興味をいだくことがなかった。だから、どんなかたちの山なのか、わかりません。 その代わり、登り口の尺里(ひさり)集落と、下りにかかって尺里峠から虫沢集落へと続く道すじで春らしい風景を堪能した。一度ならず二度、三度と。 おそらくこの、笠山や高松山のような存在は日本中にほとんど無数に存在する。一山として認知するにはいくぶん努力が必要だが、その山の斜面に肩を寄せ合うように集落ができていたり、ポツンポツンと家が散らばる。その山村風景がなぜかなつかしいものに思えるのは、そこに日本の原風景を感じるからだろうか。 歴史をさかのぼると、中世までは山の尾根が街道だった、という。道はしばしば氾濫する川に遮られたから、重要な街道はなかなか谷に下りようとしなかったのだ。 平野から谷筋へと本格的に道がつくられるのは近世からだ。川がひらかれるのは貨物輸送の大動脈としてであった。河川交通が開かれるにしたがって、その川のあちこちで、船で渡ってのびる道がつくられた。渡船のほかに橋も造られて、低地がどんどん開拓された。 古い山の道も生活道路として残された。奥多摩の浅間尾根や、青梅街道の裏街道として有名な大菩薩峠越えなどが知られているが、徳川家康は天海僧正と組んで京都五山の力を徹底的にそいで、寺院を戸籍管理の行政組織に再編するという宗教改革に成功したのだが、同時に、日光を起点にした修験者(や隠密)の情報ネットワークも確立したといわれている。そういうもののなかに、現在の登山道につながるものがかなりある。 かつては、山ひだに隠されるように存在する山里こそがスタンダードであったにちがいない。涸れない流れがあればそこに田畑をひらいて、集落が生まれた。 山里はいまもどこかにそういう自己完結的な雰囲気を残しながら、山裾のヒダの1枚ごとにひっそりとたたずんでいる。 高松山の山里は、春、いかにも自然に、いかにも文化的な香りの花のいろどりを見せてくれる。
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